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《みことば》 「さばき」
《聖  書》 ルカによる福音書 3:10-18

 聖書で語られる「さばき」は、罰することが目的ではなく、社会に正義をうちたてることなのです。たとえ律法の規定があったにしても、実際には、損害が償われ、各人の権利が尊重されていたわけではありませんでした。律法の規定はあくまでも理想なのです。
 洗礼者ヨハネは、今のままでは神のさばきにたえられないので、人々が神に立ち帰るように呼びかけます。神のさばきは、ただのおどし文句ではありません。神の愛は、愛している民を滅ぼすほど強烈なものです。イスラエルの民は、バビロンに連れて行かれて始めて、さばきを預言した人たちの言葉を思い出したのです。同時に、さばきの言葉の中に隠されていたなぐさめの言葉にも気づくようになったのです。レビ記26:40-45において、神がたとえ民を罰することがあっても決して契約を忘れず、民を滅ぼしつくすことはないとはっきり言われています。
 しかし、実際には、こうした預言者の言葉は無視されたり、迫害を受けたりしました。むしろ、「平安だ、平安だ」と言う預言者がもてはやされました。きついことを言ってさばきを預言する者より、自分の今の状態でいいんだと言ってくれる者を受け入れるのは、いつの時代もかわりありません。
 私たちは、聖書の言葉の中で、自分に都合のいいことだけを取り入れようとします。神のさばきの言葉を聞こうとしません。ただ、なぐさめの言葉だけを読もうとします。それでは、国を滅ぼされ、バビロンに連れて行かれた民と同じです。
 預言者は、別に新しいことを言ったわけではありません。律法の書に書いてあることを思い出すように言っただけです。私たちが、もし預言者の中に未来のなぐさめの預言だけを見いだそうとするなら、神の言葉を聞こうとしないのです。預言者の言葉は、未来のことよりも今の生活についての反省材料とすべきです。今、自分は神のみ言葉にふさわしく生きているでしょうか。当時の人々が、洗礼者ヨハネの言葉に耳を傾けたように、私たちも耳を傾けているでしょうか。

待降節第3主日C年(瀧野正三郎)
[こじか1977.2.13号掲載文を加筆修正]

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