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《みことば》 「姿」
《聖  書》 マタイによる福音書 17:1-9

 神の姿はたいていの場合、私たちにわかるような姿で表わされているのですが、私たちはほとんどそれに気づかないで見過ごしてしまっています。普段の生活の中で、私たちは人と出会ったり、いろんな出来事を体験しています。その時は別に何とも思っていなくても、後から振り返って見て、あの時神が私に呼び掛けていたに違いないと思う事がよくあります。聖書の中には、いろんな記事があります。たいていの場合は、後から振り返って書かれたものです。最初は何もわからずに出かけて行ったが、後になってそれは神が呼びかけられたのだと考えるようになっていきます。
 アブラハムが自分の故郷を捨ててカナン地方へ出かけて行ったのも、同じような事だったに違いありません。後になって考えた時に、あの時神の呼びかけがあって、それに答えてアブラハムが出かけて行った事になります。同じように私たちの体験を聖書のように書いてみると、アブラハムの物語と同じような事を書く事ができるはずです。
 神の姿は、一人一人によって違って受けとめられています。これが神の姿だときめつける事はできません。神は人間が思うほどちっぽけなものではないのです。
 イエスの弟子たちの体験も同じようだったと思います。イエスが生きていた時に行動を共にしていた弟子たちは、イエスの言葉と行動を十分に理解していませんでした。イエスの死後、復活の出来事を通して弟子たちは元気になり、勇気を与えられました。そして、イエスの事をまわりの人々に伝えなければいけないと思い、イエスの言葉や出来事を少しずつまとめていきました。
 でも、それぞれの人の受けとめ方には違いがあり、伝えられた内容にも、それぞれの受けとめたものが込められていました。今私たちの手にする事のできる聖書の中に、四つの福音書があるのはこのようなわけがあるからです。
 イエスの変容物語は、別の見方からすると、復活の出来事としても受けとめられます。つまり、イエスが十字架にかけられて殺される前に、弟子たちと共に過ごされた生活の中に、すでにイエスの復活の栄光の姿があったのです。私たちは今も復活したイエスと出会う事ができます。ただ、私たちが気づかないばっかりに、知らずに過ごしてしまう事がよくあります。いつ、どこで復活されたイエスと出会う事ができるか、注意深く見つめていく事が必要です。

四旬節第2主日A年(瀧野正三郎)
[こじか1981.3.15号掲載文を加筆修正]

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