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《みことば》 「荒れ野の道」
《聖  書》 マタイによる福音書 4:1-11

 出エジプト記16章〜18章、民数記10:11-21:21に、荒れ野の道の話が伝えられています。荒れ野の道でのつぶやきの結果、モーセ以下多くの人たちは入国をはたせず荒れ野で死んでいき、ヨシュア以下の民の子孫たちがようやく入国をはたすという悲惨な状態を伝えています。
 私たちはこの話を読んで、神の罰の恐ろしさを身にしみて感じさせられます。日頃、神がなんとかしてくれると思っている人も、これでいいのかとあらためて考えさせられます。私たちの現実はそんなになまやさしいものではない事がわかっています。しかし、信仰の事になると、楽観的になってしまいます。
 私たちは荒れ野の道の話から何を学びとるべきなのでしょうか。申命記史家たちのように、荒れ野の道を神が共にいて直接指導された恵の期間としてとらえるべきなのでしょうか(申命記8:1-20)。申命記史家の時代はすでにイスラエルが入国をはたし、おまけに自分たちの王ができ、イスラエルの統一王国を建てる事ができ、その後、北と南の二つの国に分裂してしまっていた時なのです。
 人々は自分たちの王の罪を嘆き、昔の日々を思い出して、なつかしく思っていたに違いありません。民は約束の地に入り、豊かな生活をする事によって、むしろ神から離れてしまったと思い、たとえ苦しい状態であっても、神の指導のもとに歩んでいた荒れ野の道の生活の方がよかったと思うようになったのです。
 後で振り返ってみれば苦しい経験も快いものとなるでしょうが、現実に苦しんでいる時はそんなことを考える余裕などありません。私たちの人生はいつも試されているようなもので、乗り越えても乗り越えても、次の障害が待っています。神は決して私たちに代わって戦われるわけではありません。
 試みの物語は、旧約の荒れ野の道の思想から影響を受けています。四十日間の荒れ野での生活は、四十年間のイスラエルの民の荒れ野の生活と比較されます。また、この物語は人間が常にさらされている試みが含まれています。これらの試みを乗りきらないかぎり、成熟した人間にはなれません。

四旬節第1主日A年(瀧野正三郎)
[こじか1981.3.8号掲載文を加筆修正]

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