<ふりがなつき「PDF」ダウンロードできます>

《みことば》 「力」
《聖  書》 ルカによる福音書 24:46-53

 「力」ということばは、ごく身近に使われるもので、その用法は数に限りがありません。一般に、自分の力で何かをやるとか、独力であることを完成させたという時は、人の力に頼らずにやれたという自己満定が含まれています。聖書の中でも、自分の力を過信して失敗した例がたびたびでてきます。その一つは、イスラエルの人たちが自分たちの国を建てることができたとき、これは自分たちの力でできたのだと思い込むようになったことです。その結果は国の分裂と滅亡でした。自分たちが神の力によってはじめて国を建てることができたのに、その神の力を認めようとしなかったのです。イスラエルの人々が自分たちをさばく王を求めたときの話に、はっきりと述べられています。神がイスラエルの王であるにもかかわらず、自分たちの王を求めることは、神の力を認めないことだと主張されています(サムエル記上8:4-22参照)。
 出エジプト記15章の勝利の歌は、神の力が人の力や馬の力をはるかに越えて偉大なものであることが歌われています。自分たちの力でなく、神の力によって自分たちが救われるという体験は、この出エジプトの出来事を通して強められ、その後信仰の基となっていきました。
 イエスは人々の病気を治され、悪霊をはらわれました。その当時、病気が悪霊のせいにされていましたので、病気を治すということは、この悪霊の力に打ち勝つことを意味しました。そこで、人々はイエスのうちに神の力が働いていることを知りました。今の私たちにとって、病気が治るのは医学によってであり、超自然的な力によっておこなわれたとは感じません。しかし、医学のなかった聖書の時代でしたから、病気を治された時に神の力を感じていたのです。
 力あるわざを行なったのはイエスだけではありませんでした。イエスに従った弟子たちも、イエスの死後各地方へ行って、偉大なわざを行ったと伝えられています。私たちも弟子たちと同じように、イエスから力をいただいています。私たちが決して自分の力にのみ頼らないで、自分のうちに働いておられるイエスの力に信頼して行うならば、たとえ自分が弱くても力あるわざを行うことができます。私たちをつき動かす力によって、生かされていることを実感するようになりたいと思います。私たちの活動のエネルギーはいつも神からいただいていることに、あらためて心を向けるようにしましょう。

主の昇天の祭日C年(瀧野正三郎)
[こじか1975.10.26号掲載文を加筆修正]

inserted by FC2 system