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《みことば》 「天」
《聖  書》 使徒言行録 1:1-11

聖書の時代の宇宙観

 聖書を読む場合に一番注意しないといけないことは、聖書が伝えたいことがらと、聖書で伝えるつもりはないが当時の一般的な考えとして入ってきたことがらとを区別することです。教会の歴史の過程の中で、こうした区別ができないばっかりに、大きな過ちをおかしてきました。その一つがガリレオ問題です。当時の教会は、聖書の表現にもとづいて天動説を主張していたので、コペルニクスが唱えた地動説を主張するガリレオを受け入れませんでした。
 これは、聖書が神の書かれたものであり、一字一句誤りがないとする考えからきています。しかし、聖書はある時代にある人々にむかって語りかけられた言葉であり、その表現は当時の一般的な考えに従っています。聖書の時代は、大地が動かずに太陽が天上を行ったり来たりしていると考えていた時代です。こうした時代の描写をもってきて、これは神の教えであるから誤りがないといっても、それは聖書が伝えたい内容ではありません。

昇天

 昇天の問題も同じように考えないといけないのです。昔の宇宙観によると、天は神の住まいというのがあたりまえでした。しかし、現代の私たちは天が神の住まいとは考えていません。そうすると、昇天の物語も別の言葉で説明されなければなりません。むしろ、昇天の物語を通して聖書は私たちに何を伝えたいのかを読み取らなくてはいけないのです。もしこの作業をおろそかにすれば、昇天の物語はおとぎ話で終わってしまいます。
 では、昇天の物語を通して何を私たちに伝えたかったのでしょうか。復活の物語を通して、イエスの死はむだに終わらなかった、むしろ、イエスの死を通して弟子たちは立ちあがり、イエスと同じように生きようとしたことが伝えられています。
 これだけでは何か言いたりないことがあったのでしょうか。イエスが神とひとしいものであることを伝えたかったのです。天に上げられるという言葉は、同時に神の右に座ることを示していました。このことを強く表現しているのは、フィリピ2:6-11に伝えられているようなキリスト賛歌です。ここでは復活について述べず、高挙を述べます。イエス・キリストの栄光が強く示されています。
 当時の教会の信仰告白は、いろいろな形でおこなわれていました。しかし、ルカによる福音書記者は、すべての出来事を順序正しく書くことを目的にしていたので、昇天の物語を復活の物語のあとにつなげることにしました。その後の教会も、この表現にしたがって信仰を宣言してきました。
 ルカによる福音書記者によれば、復活のイエスに出会った人は、かぎられた人たちであり、イエスが天に上げられることによって、イエスは万民の主となることができたのです。つまり、昇天の物語を通して、復活したイエスは、ある時代、ある地域をこえて、すべての人々に認められることを示しているのです。復活したイエスが、今も私たち一人一人の中に働いていて、私たちが知らないうちに勇気と力が与えられているのです。

主の昇天の祭日B年(瀧野正三郎)
[こじか1979.5.27号掲載文を加筆修正]

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