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《みことば》 「洗礼」
《聖  書》 ルカによる福音書 3:15-16,21-22

洗礼

 洗礼者ヨハネは洗礼をさずけていましたが、洗礼を受けることによって、終末の時における審判からのがれ、罪のゆるしを受けることができると説いていました。この意味で、洗礼者ヨハネの洗礼は、人が一回だけ受けることのできるものであって、しかも、律法を守ることすらできないものも、洗礼を受けることによって、罪のゆるしが与えられるのです。
 これに対して、クムラン集団における洗礼は、くりかえしおこなわれる清めの式でした。このクムラン集団は、洗礼者ヨハネが活動していたころ、死海西北岸にたてこもり、自分たちだけの理想の生活をいとなもうとしていたグループでした。この集団は徹底的に律法を尊守しようとしていました。つまり、洗礼者ヨハネの洗礼とは対照的に、律法を守れるもののみが受けることのできる清めの式であったのです。
 このように、洗礼は当時の社会では一般に行なわれていたものであり、クムランで行なわれていた洗礼が一般大衆にとってはかけはなれたものであったのに対して、洗礼者ヨハネの洗礼は一般大衆の救いを保障する唯一の手段であったのです。  多くの人々が洗礼者ヨハネから洗礼を受けていたことは、このような背景から考えると当然のことであったと思われます。イエスもまた、ヨハネから洗礼を受けた一人でありました。
 しかし、後に、イエスの弟子たちは、イエスがヨハネから洗礼を受けたことを否定はしませんでしたが、そこに別の意味づけをしていくようになりました。つまり、水だけでなく、聖霊による洗礼です。こうして、イエスの弟子たちは、洗礼者ヨハネの洗礼と、自分たちがおこなっていた洗礼とを明確に区別していきました。

入信の秘跡

 新しい典礼にもとづいて、洗礼・堅信・聖体の三つの秘跡をあわせて、キリスト教入信の秘跡と呼ぶようになりました。このような呼び名がつかわれるようになった大きな原因は、洗礼を受けることによって、すでに天国への片道切符を手にしたと思いこんでいる人たちが多かったからです。洗礼を受けたからといって、救いが保障されたわけではありません。
 洗礼の意味を明確にすることが必要だったのです。洗礼によって、確かに人の過去の罪は問われることがなくなりましたが、しかし、いかにイエスと一致して生きていくかが問われつづけるのです。

主の洗礼の祝日C年(瀧野正三郎)
[こじか1980.1.13号掲載文を加筆修正]

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