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《みことば》 「水」
《聖  書》 マルコによる福音書 1:7-11

 水は生きていくうえで、どうしてもかかすことのできないものです。水はいろんなことに使われています。一番大切なのは飲み水です。それについで大切なのは、汚れを洗い流すことです。
 水で汚れを洗い流すと言ってもいろいろです。水を飲むと、身体の中にたまっているいらないものを外に出す働きもします。又、雨が降った後で、木の葉の色がきれいになります。これも、木の葉についた汚れを雨水が洗い流すからです。さらに、汚れた手を洗ったり、汚れた服をきれいにします。

洗礼

 洗礼は、イエスの福音に答える信仰の秘跡です。教会において、私たちが神と出会う外面的なしるしとして、秘跡があります。信仰の秘跡である洗礼は、目に見えるしるしを通して、教会の一員となり、公に自ら神に従うことを宣言するのです。
 人が水で洗われることは、洗礼者ヨハネの活動にも見られますが、当時の荒れ野におけるクムラン集団においても、清めの式として行なわれていました。水で身体を洗うことは、どんな宗教でも行なわれていることであり、そこにどんな意味がこめられているかを見ることが大切です。
 ヨハネによる福音書3:1-21には、イエスのニコデモとの対話という形で、洗礼の意味が説明されています。水だけでなく、霊によって新しく生れ変わることが求められています。そのために、イエスの洗礼の場面でも、洗礼者ヨハネの洗礼と区別するために、霊が鳩のような形で下ったことが述べられています。
 人は洗礼によって、イエスと一つに結ばれ、神の民の一員となります。ただ、神と結ばれるだけでは足りません。自分が一人で神を信じるのなら、心の中で自分は神に従いますと言っていればそれですむことです。わざわざ洗礼を受けるのは、神の民である教会の一員になるためです。それによって、お互いに助け合いながら、神に従った生活ができるように一緒に歩むのです。そのために、目に見えるしるしを通して信仰を表明するのです。

主の洗礼の祝日B年(瀧野正三郎)
[こじか1976.6.13号掲載文を加筆修正]

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