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《みことば》 「幼児洗礼」
《聖  書》 マタイによる福音書 3:13-17

 幼児洗礼については、いつも次のような疑問が出されます。幼児洗礼を受けても、ある時期になると反発して教会から離れてしまうし、なんとなくうしろめたさを感じてしまいます。それなら、幼児洗礼を受けない方がいいのではないか。本人が信仰を選べるようになった時に洗礼を受ければいいのではないか。
 しかし、こうした反論があるにもかかわらず、幼児洗礼を授けるのにはそれなりの意味があるはずです。「幼児洗礼の緒言」では、幼児洗礼の習慣について次ぎのように述べています。
 『福音を宣教し、洗礼を授ける使命を与えられた教会は、最初の時代から成人ばかりでなく幼児にも洗礼を授けてきた。それは「人は水と霊によって生まれなければ神の国にはいることはできない」(ヨハネ3・5)という主のことばの中に、幼児にも洗礼を拒んではならないことを教会が常に理解してきたからである。
 幼児は、両親、代父母、参加者一同が宣言する教会の中で洗礼を受ける。この人々は地域教会を代表するとともに、母なる教会全体を代表しているのである。』
 信仰が自分一人で育つものなら洗礼そのものが無意味になります。教会での仲間とのつながりの中で信仰が育つのであり、洗礼が信仰の道を歩む出発点と考えるなら、生まれてすぐに洗礼を授ける意味がでてきます。
 もし、親が信仰に対して自信がなく、教会の仲間から離れているのなら、形式的に洗礼をさずけるのはやめるべきです。親が子供の信仰を育てる事を前提にして洗礼を授けるのですから、教会の一員として歩めない事がはっきりしているのなら、洗礼も意味がありません。
 幼児洗礼の人にとって堅信の秘跡はとても大切です。この式によって自分が信仰を選び、自ら従う事を決意するとともに、他の人にも働きかけていく使命を受けるのです。洗礼は信仰の秘跡であり、神からの呼びかけに答えていく ものですから、神からの働きかけと、私たちからの答えがあって初めて意味がでてくるものです。神からの恵みだけを期待していても、自分の力だけに頼っていてもいけません。自分の弱さを認めて神からの力を受け、まわりの人々に働きかける事が大切です。

主の洗礼の祝日A年(瀧野正三郎)
[こじか1976.6.13号掲載文を加筆修正]

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