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《みことば》 「聖体」
《聖  書》 ルカによる福音書 9:11b-17

秘跡

 私たちが神と出会うためには、必ずしも秘跡にたよる必要はありません。私たちはいつでもどこでも神と出会えるはずです。それなのになぜ秘跡が教会の中で行なわれているのでしょうか。
 出発点はいつもイエスにさかのぼります。イエスの生き方そのものが秘跡なのです。イエスの働きがなくても、人は神と出会う事ができます。しかし、イエスの具体的な行動を通して神を身近なものとしてとらえる事ができました。神は神殿の奥深くにあって、清められた者以外は近づく事ができないのではなく、むしろ、神の方が見捨てられたような人々に近づいてくるのです。
 イエスの言葉と行いを通して示された事は、自分たちは神から見捨てられていると思っている人々に、希望を与える事でした。目に見えるイエスの姿を通して、神と出会う事ができたのでした。このイエスの姿こそ秘跡そのものです。
 もちろん、最初から弟子たちがこの事を自覚していたわけではありません。イエスが自分たちの期待に反して十字架上で殺されたあとで、次第に理解するようになりました。後になって弟子たちは、イエスの行動のうちに神の栄光の姿を見るようになりました。

聖体の秘跡

 イエスが十字架で殺された後、人々はもはや目に見える形でイエスと出会う事ができなくなりました。しかし、イエスの死に直面して絶望していた弟子たちが、ある時から急に元気づいて、人々の前でイエスの事を伝え始め、教会を作りました。イエスの弟子たちの集りである教会は、イエスの名のもとに集まる事によって、目に見えるしるしとなったのです。一人一人がそれぞれ神と出会うだけでなく、お互いに集まる事によって共通の神を確認し力づけあうのです。
 こうした意味で教会そのものが秘跡なのです。イエス・キリストに従う者たちが、同じ信仰にささえられて、毎日の生活の中で神との出会いをよりたやすくできるのです。あるいは、毎日の生活の中での神との出会いを、集まって分かちあう事ができるのです。
 それではいったい、教会の中で儀式として行っている秘跡は何でしょうか。確かに、キリスト者の集まりの中にイエスがいて、そこでイエスと出会う事ができるのです。しかし、同時に目に見えるしるしを通して、私たちが神と出会う事のできる保証が与えられているのです。今も教会の中で聖体の秘跡が重んじられているのはこのためです。

聖体の主日C年(瀧野正三郎)
[こじか1979.6.17号掲載文を加筆修正]

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