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《みことば》 「勇気」
《聖  書》 使徒言行録 2:1-11

勇気

 勇気はどこからわいてくるのでしょうか。勇気は目で確かめることもできないし、手でつかむこともできません。でも、確かに勇気はあります。勇気がなければ人はなにもすることができません。困難にぶつかった時に、それに立ち向かっていけるのは、勇気があるからです。勇気のない人は一人もいません。ただ、強い勇気を持っているか、弱い勇気を持っているかの違いがあるだけです。
 どんな困難な中にあっても、どんなに自分がころんでも、その泥沼からはいあがれる力が、一人一人にあるはずです。ただ、自分のうちにある勇気に信頼しなかったり、自分にも勇気があることに気づかない人が多いのです。
 弟子たちも同じでした。イエスの死に直面して、隠れてしまったり、失望してみんなから離れていきました。自分たちの期待がうらぎられたので、もう希望を持つことができなっかたのです。しかし、その弟子たちをふるいたたせたのは、弟子たちも気づかなかった勇気でした。絶望した時に初めて、自分にも勇気があることに気がついたのです。今までは、イエスになんでもかんでも期待しすぎていたのです。イエスについていけばなんとかなると思っていたのです。イエスの死を通して、弟子たちは自分たちの中にも勇気があることを見いだしたのです。

聖霊降臨

 使徒言行録に伝えられている聖霊降臨の記事は、現代の私たちにとって受け入れにくいものです。そこで何が起こったのか、今から調べることはできません。確かに何かのできごとがあったのでしょう。失望していた弟子たちは勇気を持って、全世界に向かってイエスの事を伝え始めました。これには何かのきっかけがあったはずです。
 弟子たちが勇気を持って人々に語っていく時に、自分たちの変化を人々に示す必要がありました。自分たちはどうして変化したのか。当時の人々に説明するには、天から神の霊が弟子たち一人一人に注がれたのだといえばみんな納得しました。
 今の私たちはこれでは納得できません。外から働きかけがあったというよりも、むしろ一人一人の心の中に、前から神の力、神の霊が働いていたのです。ただ、それに人々が気づかないだけなのです。人が病気をしたり、何かに失敗したりした時に、自分たちにも神の力が働いていて、決して失望しないと気づくのです。どんな人間にも、勇気が与えられていることを示したのが、聖霊降臨のできごとなのです。

聖霊降臨の主日第1朗読B年(瀧野正三郎)
[こじか1979.6.3号掲載文を加筆修正]

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