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《みことば》 「父と子と聖霊」
《聖  書》 マタイによる福音書 28:16-20

神の働きかけ

 私たちが神のことを知っているといっても、ごく限られたことだけです。神からの働きかけを受けることによって、神のある面を知っているにすぎません。同じ人間でも、その状態によって受けとり方も変わってきます。まして、違う人間なら感じ方もそれぞれ違います。
 聖書は決して神のことを説明してはいません。ある人が、あるいは、ある民族が、どのように神の働きかけを受けたかということを伝えているだけです。神がどのように歴史の中で働いておられたかを信仰の目で語っているのです。
 私たちも、今聖書を書くことができます。それは、私たちのまわりで起こっているできごとの中に、神の働きを見いだせば、それを伝えることができます。昔の人に働きかけた神は、今も私たちに働きかけているのです。

父と子と聖霊

 教会において、父と子と聖霊を、三位一体の神と呼んできました。この三位一体の神という表現は、教会の伝承の過程で使われるようになったのであり、聖書においてはこの表現は使われていません。 たしかに、マタイによる福音書28:19に伝えられているように、父と子と聖霊という表現は、かなり古くからあったようです。また、ヨハネによる福音書14:1-31では、父と子と聖霊の関係について説明がなされています。
 人が神と結びつけられるために、神からの働きはいろいろと示されています。人はそうした神からの働きかけを受けて、はじめて、自分にも神の力が働いていることに気づくのです。神のことをうまく説明してもなんにもなりません。むしろ、どうしたら神の働きかけを感ずることができるかを知る必要があります。
 父なる神は、万物の創り主として描かれています。旧約聖書に出てくる父なる神は、きびしく人をきたえていく姿で描かれています。しかし、いつでも、どんな困難にあっても、信頼できることを人々に教えています。
 子としてのイエスは、力のない人や、病人や、貧しい人に手をさしのべる愛の姿で描かれています。その反面、律法学者や、金持ちや、権力を持った人に対しては、ののしることもします。イエスは、大いなる力を出すことなく、あえて十字架の死をすすんでひき受けていきます。
 聖霊は、弟子たちの活動をささえる原動力です。使徒言行録の主役は聖霊です。弟子たちは、その道具とさえ見なされています。
 人は、こうした描写を通して、神の働きかけを、しっかりとつかむことができるのです。ある一面だけでは、神の働きかけを知ることができません。いろんな角度から見ることによって、神を知っていくことができるのです。三位一体は神についての説明の言葉にすぎません。人が生きていく上で力にはなりません。神の具体的な働きかけを知ってこそ、勇気が出てくるのです。

三位一体の主日B年(瀧野正三郎)
[こじか1979.6.10号掲載文を加筆修正]

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