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《みことば》 「王」
《聖  書》 ヨハネによる福音書 18:33b-37

神が王である

 旧約聖書では、「神が王である」という思想がはっきりと表されています。サムエル記上12:12-20によると、イスラエルの民が他の国々のように王を立てようとした時に、「あなたがたの神、主があなたがたの王である」と言われています。もちろん、このような思想が強くなったのは、イスラエルが王時代を経験した後であり、王制度による悪い点を見て、イスラエルの人々はますます神が王であると言う思想を強めていくようになったのです。
 王時代においてもそうした思想が常にあったことは事実です。王時代における祭儀の歌として知られている出エジプト記15:1-18の歌の中でも、「主は代々限りなく総べ治められる」という句が最後に入れられています。このように、王時代においても、常に神がすべてを治められるという思想が早い時期からあったと考えられます。
 「神が王である」という表現がいつから使われるようになったかは別として、神がイスラエルを常に導き、ともにあるものという思想は早くからあったことはあきらかです。ただそれが、王国の滅亡と共にますます強められ、神みずからが王として全世界を治められるという期待となって表されるようになっていきます。メシアに対する期待も、この「神が王である」という思想と結びついてできたものです。

神の国

 イエスの時代になると、「神が王である」という表現は使われなくなっていきます。そのかわりに、「神の国」という表現が使われるようになっていきます。これは、イエスの時代には抽象的な表現がイスラエルの思想にも入り込んできて、動詞的な表現が変えられていったからです。その意味では、「神の国」も、「神が王である」という意味で理解すべきです。
 イエスに対して王の称号を使う時、どういう意味で語られるのでしょうか。神の子として世に遣わされたものとしてイエスをとらえているのでしょうか。「神の国」ないし、「神が王である」という表現は、神が常にいつも共におられ、けっして見捨てられないという信仰表現です。
 それに対して、イエスを王として立てることは、当時の人たちが期待していたように、何か絶対的な力ですべてを解決してくれるイエスの姿を期待しているのではないでしょうか。もし、イエスの王としての姿に期待するなら、イエスの十字架の死は無意味なものになってしまう危険があります。イエスは、人々のそうした期待を打ちくだくために十字架にかけて殺されたのです。私たち一人一人が自ら十字架を背負うことをイエスは望んでいたのです。

王であるキリストの祭日B年(瀧野正三郎)
[こじか1979.11.25号掲載文を加筆修正]

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