<ふりがなつき「PDF」ダウンロードできます>

《みことば》 「祝福とのろい」
《聖  書》 マタイによる福音書 25:31-46

 「祝福とのろい」ということばは、聖書の中心的な思想になっています。モーセ五書においては律法の条文の最後に出てきます。このことばによって、民に対して律法に従うようにといましめています。このことばは、律法を守れない者は神から見捨てられ、律法を守る者のみが聖なる者となると主張する律法主義の根拠とされています。
 しかし、レビ記26:40-45では、たとえ罰を受けることがあっても、神が契約を破ることはないと書かれています。申命記28:62でも、完全には滅ぼさず、残りの者がいると書かれています。
 今日のたとえの中心は、最後のさばきにあるのではなく、イエスに従う者はいかに行動すべきかという点にあります。祝福とのろいのことばは、未来についてのさばきのことばではなく、今どう生きるべきかという勧めのことばなのです。とうてい律法を守れないと思っている人でも、思いがけないうちに神のことばを実行していることがあると教えているのです。
 神が決して契約を破らないと言われる時、又、必ず残りの者がいると言われる時、そこに福音があります。自分ではイエスに従った生活をしていないと思っていても、神から認められるのです。しかし、自分ではイエスに従った生活をしていると思っていても、神が認めないこともあるのです。
 私たちの生き方が問われているのです。私たちはイエスの生き方にならうしかありません。私たちは福音のためにとか、愛のためにという理由をつけて、自分の行動を正当化しようという傾向があります。しかし、今日のたとえで示されていることは、知らないでした行動に対して、神の評価がなされるということです。

王であるキリストの祭日A年(瀧野正三郎)
[こじか1977.2.20号掲載文を加筆修正]

inserted by FC2 system