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《みことば》 「献げる」
《聖  書》 ルカによる福音書 2:22-40

ミサにおける奉献  今日の聖書では、両親がイエスを主に捧げたことが伝えられています。これは当時のユダヤ人と同じように、両親が律法の規定に従って行なったことです。
 しかし、私たちが繰り返し行なっている感謝の祭儀であるミサでは、イエスの生涯が主への捧げものであったと理解し、私たちはパンとぶどう酒のしるしを通して、イエスの十字架の死と復活にあずかっています。又、ミサの中での奉納は、私たちもこの感謝の祭儀に参加し、パンとぶどう酒の目に見えるしるしを通して、自分自身を神に捧げることを意味しています。
 旧約聖書の時代では、罪のとがのつぐのいとして、動物がいけにえとして捧げられていました。イエスの死は、このようないけにえに代るものではありません。イエスは、弟子たちにも自分の十字架を担うように求めています。イエスは私たちの罪のとがのつぐのいのために死なれたのではありません。

毎日の生活の奉献

 ミサの中での奉納において自分自身を捧げるということは、毎日の生活を捧げるということになります。言葉を変えれば、日々自分の十字架を担うということです。
 イエスの十字架の死によって自分たちの罪のとががつぐのわれたのではありません。イエスは、人々を十字架の死と復活へと招いておられるのですから、私たちも自分の十字架を担うことが必要なのです。
 毎日の生活の中で、福音に基づいて生きるということは、簡単なことではありません。しかし、私たちがミサに参加して、繰り返し確認しているように、私たちにはそれを実行する勇気と力が与えられているのです。

2月2日主の奉献の祝日(瀧野正三郎)

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