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《みことば》 「パウロ」
《聖  書》 使徒言行録 9:26-31

パウロの召命

 パウロは紀元前後にディアスポラのユダヤ人家庭で生まれ、のちにファリサイ派の一員としてエルサレムで律法を学びました。かれは律法に対する熱心からイエスの教会を迫害するようになります。
 しかし、迫害の対象となったのはヘレニストの教会で、エルサレムの教会ではありませんでした。エルサレムの教会は、聖なる都、神殿、律法に忠実でありつづけていましたので、ユダヤ教の中の狂信的なグループの一つとしか見られませんでした。それに対して、ヘレニストの教会はユダヤ民族の救いの権利に対して疑問を提起することにより、最初の迫害を受けました。そのためダマスコやアンティオキアのシリアに異邦人キリスト者の教会を設立させました。
 パウロの回心と召命については、パウロ自身の言葉から知ることができません。ただはっきりしていることは、かれが地上に生きたイエスに出会ったことがなく、かれの回心と召命は、イエスの直接の影響下に行なわれたものでないということです(フィリピ3章、ガラテヤ1:15-16)。
 使徒言行録には、9:1以下と、22:3以下と、26:9以下に、三度にわたってパウロの回心と召命の記事がのせられています。しかし、使徒言行録を書いたルカ福音書記者は、パウロを神の福音を伝える道具としてしか考えておらず、パウロに異邦人への宣教の使者の役割を与えているだけです。三つの記事とも、パウロの回心より、かれを異邦人の宣教につかわす使命のほうに重点が置かれて語られていることはあきらかです。

パウロの召命の後

 パウロの回心と召命以後15年については、使徒言行録からわかりません。使徒言行録で見るかぎり、キリスト者の中にもパウロのことを受入れようとしなかった人たちもいたが、使徒たちはすぐにかれを受け入れたと伝えられています。
 しかし、ガラテヤ1:12以下のパウロの証言によると、この15年間、エルサレムから遠く離れた地で、伝導者としての活動を行なっていました。かれはただちにアラビア(ダマスコ東南に位置する東ヨルダンの異教の地)へ行って宣教していましたが、目に見える成果はありませんでした。回心後、2・3年した時に、ぺトロに出会いに一度エルサレムへ2週間ほど出かけました。その後、シリア、キリキア、アンティォキアで活動します。
 なぜパウロはエルサレムの使徒たちと交わらなかったのか、その理由としてはお互いの使信の違いがあったと考えられます。特に、律法に対する考え方は、エルサレムにとどまっていた教会の考え方とは違っていました。
 律法のそくばくからの解放こそがパウロの使信の中心になっていました。かれ自身が律法に対して熱心であったからこそ、逆に律法の業では救いが得られないことに気がついたのです。その点エルサレムの教会はまだユダヤ社会の中にとどまっていたので、そのことに気づかなかったのです。

復活節第5主日第1朗読B年(瀧野正三郎)
[こじか1979.5.13号掲載文を加筆修正]

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