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《みことば》 「律法」
《聖  書》 使徒言行録 13:14,43-52

 イエスの時代のイスラエルは、ユダヤ教の世界でした。ユダヤ教は、イスラエルがバビロニア捕囚という体験をした時代から成立しています。捕囚前のイスラエルには、国と神殿という一つの基盤がありましたが、捕囚によってその基盤は崩れてしまいました。
 捕囚後におけるエズラの律法は、新しい共同体を定める構成要素となりました。国家や神殿がなくても、ユダヤ人たちは律法の規定を守ることによって、イスラエルの民であり続ける事ができたのです。律法は、契約の意味が弱められ、絶対的な永遠に存在するものになっていきました。
 そして、律法を与えるという昔のレビ的職能に代って、その正しい解釈と適用のために律法学者の階級が起こりました。又、律法のもとでの良い生活を過ごすために、知恵の伝統が重視され、知恵の教師が生れました。
 さらに、神殿が再建されても、そこはもはやダビデ王朝の聖所ではなくなり、国家的祭儀もなくなりました。祭儀はユダヤ教を導く力を失い、律法の規定によって支えられ、律法の要求を成就するためのものでしかなくなりました。
 律法の内容も、モーゼ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)に限定され、預言書は律法を繰り返すか、それを思い起こさせる役目としか考えられず、預言の時代は終わったと考えられていました。
 イエスの時代には、旧約聖書に記されている六百二十余りの律法を社会生活に適応させるために、律法学者たちによってさらに新しい解釈の規定が作られていきました。人々は日常生活における行動の指導を律法学者から受けていましたし、律法学者たちは、律法の規定を守る事によってこの世に神の国をもたらす事ができると考えていました。
 しかし、現実には貧しい人たちが、貧しいがゆえに律法の規定を守る事ができないでいました。この人たちは、律法を守らない罪人とみなされ、この人たちとつきあう事が禁じられていました。こうして、律法による差別に苦しむ多くの人たちが、救いのない状態に置かれていました。
 イエスは、律法による差別に苦しむ人たちの状態を見て、こうした差別を作り出している律法社会そのものを問題として取り上げました。つまり、一般に罪人とみなされている人は、実際には罪人ではないのです。社会の中で、不正義を行ない、富を増やし、権力をふるっている人こそ問題なのです。富んでいる人は、たとえ不正をしていても、ほどこしをする事によって義人とみなされていたのです。
 イエスが大切にしたのは一人一人の人間の価値です。たとえ律法であっても、一人一人の人間の価値を否定する事はできないのです。

復活節第4主日第一朗読C年(瀧野正三郎)
[こじか1980.4.27号掲載文を加筆修正]

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