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《みことば》 「捨てられた石」
《聖  書》 使徒言行録 4:8-12

むだ死に

 イエスの死を通して考えられることは、一般の人たちの目から見ると、イエスの一生がむだに終わったということです。イエスの働きを通して弟子たちができ、多くの群衆もイエスについていきました。しかし、人々が期待していたことはイエスの目指していたものとは違っていました。
 人々のこうした期待に反した死に方をイエスがしたことによって、人々はイエスから離れていきました。まさに、むだ死にのようにイエスは十字架にかけられました。
 今の私たちのまわりを見まわすと、なるべくむだをなくそうという考えにふりまわされています。遊んでいる土地があれば何かに利用しないといけない。水のあまり流れていない川にはふたをして道路を作ればよい。空間があいているから高層ビルを建てよう。東京と大阪の間を仕事のために行ったり来たりする人が多いから、時間を節約するために新幹線を走らせよう。それでも時間がもったいないからリニアモーターカーを走らせよう。
 しかし、このようにどんどんむだをはぶくことがすすめられていく過程の中で、大切なものが失われていくような気がします。新幹線がどんどん作られていくと騒音の問題が出てきました。開発という名のもとに自然は破壊され、もとにもどるには何百年という時間がかかります。
 今、私たちがこうした考え方をあらためないかぎり、イエスの死はまさにむだ死にで終わってしまいます。安易な解決を求めようとしたり、少しでも楽をしようと思っているかぎり、イエスの生き方は無意味なものになってしまいます。
 苦しい時の神だのみはますます激しくなっています。日頃は宗教について耳をかさない人でも、何か困ったことがあるとあわてて神社におまいりします。イエスの死は、そうした安易な解決を求めようとする人の期待をうらぎったのではないでしょうか。自ら十字架をになわないかぎり、イエスの弟子となれないと言われたのではないでしょうか。
 効果の見えてこない、むだなような努力こそ大切にすべきなのです。こうしてこそ、イエスの死が私たちの生活の土台となる石にかわっていきます。私たちの生き方そのものを変えていきます。なんの得にもならないように見える行動にも価値を見いだすことができるようになります。

復活節第4主日B年第1朗読(瀧野正三郎)
[こじか1979.5.6号掲載文を加筆修正]

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