<ふりがなつき「PDF」ダウンロードできます>

《みことば》 「救い」
《聖  書》 使徒言行録 2:14,36-41

 日本には、古来より神道や仏教があり、多くの人々が救いの道として信じてきました。キリスト教が日本に伝えられた歴史を振り返りますと、宗教として入ってきただけでなく、ヨーロッパの文化と一緒に入ってきました。当時の支配者たちが、キリスト教を受け入れたのは、純粋に新しい宗教を受け入れたかったというよりも、一緒に入ってきた文化を受け入れたかったのです。キリスト教の禁教令にしても、宗教そのものを禁止する事が目的ではなく、キリスト教を利用して入ってくる政治勢力の支配を押さえる事が目的であったと思われます。
 救いの道には、これでないといけないというものはありません。ある人にとっては仏教が自然と受け入れられますし、ある人にとってはキリスト教が自然と受け入れられます。このように、特定の宗教だけが救いの道だとは言えません。
 キリスト教の歴史の中で、自分の宗教だけが、唯一の救いの道だという事を主張し、多くの人々を迫害してきました。しかし、第2バチカン公会議において、こうした考えは間違いであった事を認め、他宗教との和解につとめるようになりました。
 キリスト信者の多くは、たまたま触れた宗教がキリスト教であったという例が多いようです。現実の生活との結びつきで、各自が触れやすいもの、あるいは、よりよく自分の道を見つけやすいものを選べばよいのです。
 救いの道を個人的なものととらえている人も多いですが、キリスト教では、個人の救いではなく、共同体に入る事が強調されています。洗礼は、ただ単に個人の罪をゆるしてもらうだけでなく、教会共同体に入る秘跡なのです。
 洗礼によって聖霊の恵みを受けたキリスト信者は、イエス・キリストの福音に答える使命を受けます。自分さえよければいいという考えではなく、すべての人々が等しく神の恵みを受けられるように働かなければなりません。

復活節第4主日第1朗読A年(瀧野正三郎)

inserted by FC2 system