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《みことば》 「目を開く」
《聖  書》 ルカによる福音書 24:13-35

気づかないできごと

 私たちの回りには、私たちの気がつかないうちに起こっているたくさんのことがあります。私たちは何でも見ているようで見ていないし、何でも聞こえているようで聞こえていないし、何でも感じているようで感じていないのです。
 私たちの回りには、草木がいっぱいありますが、たいていは、私たちの寝ている間に芽を出したり、花が咲いていたりします。私たちが水をやらなくても、自然に種から芽が出て、どんどん成長していきます。

イエスは弟子の目を開かれる

 今日の福音の話しは、イエスの復活のことを理解するのにとても助けになります。
 エマオという村へ向かった二人の弟子たちは、途中復活したイエスと出会ったにもかかわらず、目がさえぎられていて、イエスだと分からなかったと伝えています。イエスの復活は、誰もが認めた出来事ではないのです。イエスのことを理解しなかったり、信じない人には見えない出来事なのです。
 二人の弟子たちは、イエスがパンをさいて渡された時に、目が開けたと伝えています。イエスと一緒にいた記憶に残っていた出来事に出会った時に、始めてイエスだと気づくことができたのです。
 私たちも弟子たちと同じような体験をしているにちがいありません。復活されたイエスは私たちの気づかない所で働いておられるのです。イエスは2千年前のイスラエルの地で活動されたので、生前のイエスと出会った人は限られています。しかし、復活したイエスと出会った人はたくさんいます。イエスの弟子たちを迫害していたパウロも、ある時復活したイエスと出会ったと語っています。
 つまり、復活したイエスの活動は、時間にも場所にも制限されないということです。こうした意味で、復活したイエスは今でも私たちの知らない所で活動されているのです。
 ですから、どこにイエスの示された福音があるのか、よく目を開いて見ることが大切です。まさかこんな所では、復活したイエスが働いておられないだろうと思いこんでしまうと、とんでもないまちがいを起こしてしまいます。エマオという村へ向かった二人の弟子たちのように、後で振り返って、どこでいつ復活されたイエスと出会ったかを考えてみることが大切です。いつも、心の目を開くようにしましょう。

復活節第3主日福音A年(瀧野正三郎)
[こじか1990.4.29号掲載文を加筆修正]

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