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《みことば》 「あがない」
《聖  書》 マルコによる福音書 10:35-45

 イエスの十字架の死の意味の説明として、人々のあがないのための死という用語が使われています。ここで、この「あがない(新共同約聖書では身代金と訳されている)」という意味について問い直したいと思います。イエスが十字架上で死んだことによって人々の罪がゆるされた、という意味であがないが説明されてきました。このことの意味を弟子たちは最初から知っていたわけではありません。もし、弟子たちがあがないの意味を知っていたら、イエスの十字架の死に直面しても、決して挫折しなかったでしょう。
 しかし、弟子たちはイエスの十字架の死に直面して、挫折し、失望してしまいました。つまり、弟子たちはイエスの死の意味を理解できなかったのです。むしろ、弟子たちの期待していたことが裏切られたのです。弟子たちは、イエスが神の王国を建設して、諸国の民を従わせると思っていたし、その時には自分たちも高い地位につけると思っていました。この意味で、イエスの死は弟子たちを目覚めさせるきっかけになりました。イエスを人々を支配するメシアとしてではなく、人々に仕え、人々のあがないのために死でいく苦しむしもべの姿として理解するようになります(イザヤ52:13-53)。
 使徒言行録8:26-40の記事は、まさに弟子たち自身の体験であったのです。イエスの死の意味が理解できないで苦しんでいた弟子たちは、イザヤ書に出てくる苦しむしもべの姿のことを思い出したのです。イエスの死はむだ死にではありません。むしろ、イエスは自らの死を通して、人々の罪をあがなったのだと理解したのです。
 このようにして、イエスは自らの死を通して、弟子たちを誤った考えや、生き方から解放しました。あがないとは、ただ単に祭儀的な罪の清め(レビ記16:10,16)を意味しているのではありません。もし人が誤ってこのような意味にとるとすると、人がどんな過ちをおかし、あるいはどんな不正を働いても、イエスの十字架の死にあずかることによって清められることになります。
 たしかに、罪のゆるしは神の恵みの行為であることに違いありません。しかし、あがないを通して言われていることは、人々の罪のそくばくからの解放なのです。もし、人が古い人間のままでいるとしたら、それはあがなわれたことにはなりません。古い人間とは自分のことしか考えられない人間、自分が人の上に立とうとすることしか考えない人間のことです。

年間第29主日B年(瀧野正三郎)
[こじか1979.10.21号掲載文を加筆修正]

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