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《みことば》 「子ども」
《聖  書》 マルコによる福音書 9:30-37

子ども

 聖書において群衆の数をかぞえるとき、女性と子どもははぶかれて男性の大人だけが対象にされています。これは当時のユダヤの社会習慣に従っているからです。ユダヤの社会では女性も子どもも財産の一部と考えられていましたし、裁判においても証言の資格が認められていませんでした。女性についてはこの次の機会に見ることにして、今回は子どもについて考えてみましょう。
 聖書では「子ども」あるいは「おさなご」と訳されている言葉は、「子」と区別されています。「子」は息子、子孫、神の子、人の子という意味で使われています。それに対して「子ども」あるいは「おさなご」は、社会的にみて一人の人間としてはみなされず、誰かによって養われる必要のあるものとみなされていました。
 こうした当時の社会習慣からみて、イエスが言った「子どもを受け入れなさい」という言葉は、ある特定の響きを持っています。イエスの弟子になるためには自分の十字架を背負いなさいという要求との関連でこの言葉を理解する必要があります。イエスの弟子になることは自分に何か得があることだ、自分にとって都合のよいことだと考えている弟子たちにむかって言われた言葉です。イエスの弟子は自分が上の立場に立って人に教える者でもないし、ましてや、人からちやほやされる者でもありません。むしろ、イエスが当時の社会の中で差別されたり圧迫されたりして、人間としてあつかわれていなかった人の友となり、人々を勇気づけられたように行動しないといけないのです。その具体的な一つの例として、「子どもを受け入れなさい」と言われているのです。

家庭における子ども

 当時のユダヤの社会だけでなく、今の日本の社会でも子どもは発言権を持ちません。ただ、今の日本の家庭では子どもを大切にあつかいすぎているきらいがあります。「子どもを受け入れる」ということと、子どもをあまやかすということとは、同じことではありません。
 子どもが家庭で自分の役割を見つけられるようになれば、社会の中でも自分の役割を見つけられるはずです。「子どもを受け入れる」ためには時間もたくさん必要としますし、大人がしんぼうする必要があります。子どものやれることまで大人がてやってしまうことは、子どもを大切にしていることにはつながりません。

年間第25主日B年(瀧野正三郎)
[こじか1979.9.23号掲載文を加筆修正]

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