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《みことば》 「十字架」
《聖  書》 マルコによる福音書 8:27-35

メシアへの期待

 メシアは、ヘブライ語で、油そそがれた者という意味です。これがギリシャ語になると、キリストと訳されます。ぺトロは信仰告白で、イエスがメシアであると言います。しかし、それに対してイエスは沈黙を命じます。イエスはしばしば病人をいやしたあとで、このことを誰にも言うなと言いますし、悪魔つきがイエスのことを呼ぶと、この人にも沈黙を命じます。問題は、イエスがメシアだと言っても、それがどういう意味で語られたかということです。
 イエスの時代の人たちがメシアに期待していたのは、イスラエルの民がバビロニアへの捕囚という苦しい状態から解放されて、ふたたびもとの土地に帰ってきたにもかかわらず、ローマとかの大国の支配の下に置かれていて、自分たちの独立の国を建てることができなかったので、こうした状態から救われることだったのです。だから、メシアは政治的な力をもってローマの国に打ち勝ち、自分たちの王として世界に君臨すると考えていました。イエスに従った弟子たちの中にも、このような期待を持っていた人がいたことはあきらかです。

十字架を背負う

 イエスがぺトロに対してしかったのは、ぺトロが自ら十字架を背負おうとしなかったからです。ぺトロも、はじめのうちは自分で努力することよりも、イエスが何かをしてくれることを期待していたに違いありません。もしそのような気持ちでいるなら、たとえイエスがメシアだと告白しても、その答えが正しくても、イエスから非難されることになるのです。イエスの沈黙の命令は、十字架を背負って従おうとしないかぎり、イエスについて言う資格がないことをはっきりと断言した言葉と考えられます。
 弟子はイエスのあとに従って、イエスと同じように自分の十字架を背負わなければなりません。自分の努力なしに神により頼むことは、自分勝手な信仰でしかありません。日本人はわりと苦しい時の神だのみ式の信仰を持つ人が多いので、救いの言葉にはよく耳をかたむけますが、十字架を背負うという言葉には耳をかしません。それでは自分の都合のよいことだけを取り入れているだけになりますから、イエスの弟子にふさわしくありません。

年間第24主日B年
[こじか1979.9.16号掲載文を加筆修正]

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