《みことば》 「弟子」
《聖 書》 ルカによる福音書 14:25-33
弟子の姿
「弟子」という言葉は、聖書では「学ぶ」という語源からできています。弟子の姿を理解する場合、初めから教えを知っているのではなく、まちがったりしながら学んでいく過程が大切です。弟子たちの理想像も結構ですが、むしろイエスとともに生活していても、イエスによくしかられていた弟子たちの姿を見る必要があります。
イエスに従った弟子たちは大勢いました。しかし、たいていの弟子たちは思い違いをしていました。イエスが普通の人と違って何かをしてくれるだろうと期待していました。初めて出会ったにもかかわらず、何かひきつけるものがあったのかも知れません。
しかし、当時の人々が持っていたメシアへの期待というのは、政治的な力でもってローマの軍隊に打ち勝って、自分たちの王として世界に君臨することでした。イエスに従った弟子たちも、ローマの支配下に置かれている現状において、また貧富の差が激しい生活状態において、こうした現状をイエスが打ち破ってくれることを期待したのも当然のことだったと思います。
弟子の条件
イエスが考えていることと、弟子たちが期待していることとは、時には大きく食い違いました。では、どのようにして弟子たちはイエスの考えを学んでいったのでしょうか。それはもちろん、イエスとともに生活し、その教えを聞き、また、その行動を見たことによってでしたが、特に、弟子たちの心に強く残ったのは、イエスが自ら十字架の死を覚悟し、死んでいったことでした。イエスの死は政治的に見れば敗北であり、弟子たちが一時挫折したのも無理がありません。しかし、この弟子たちを立ち上がらせたのもまた、同じイエスでした。
このように、イエスの弟子になるための条件はある面では厳しく感じます。自分の十字架を背負うことなど自分にはできないと思ってしまいます。しかし、昔イエスが弟子を招かれたように、今も私たちを招かれています。
イエスは、初めから「私はイエスです」と言って私たちの前に現れません。後になってから、あの人はイエスではなかったかと思うほうが多いでしょう。私たちがいろんな人と出会う中で、何かイエスの弟子としてできることがあるはずです。
年間第23主日C年(瀧野正三郎)
[こじか1980.9.7号掲載文を加筆修正]