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《みことば》 「群れ」
《聖  書》 マルコによる福音書 6:30-34

群衆

 聖書の中には「群衆」がよく出てきます。この言葉を通して、一体何を語ろうとしているのでしょうか。
 イエスの受難の物語では、群衆はイエスを捕まえるためにやって来ます(14:43-50)。そして、ピラトに対してイエスを十字架につけるように要求します(15:6-15)。しかし、別の場面ではイエスにつき従い、むしろ、イエスの語ることを聞こうとして集まってきます(3:7-12他)。このように、イエスに好意的な態度を示していた群衆は、イエスの受難の物語では登場しなくなります。イエスはもはや、手の届かない所に行ってしまっていたのです。群衆にとって真の指導者は、常に自分達のすぐそばにいて、いつでも助けを求めることができるものです。
 ところで、当時の群衆は、どのような状態に置かれていた人たちでしょうか。イスラエル史には、アム・ハ・アレツと呼ばれる「地の民」がよく出てきます。「地の民」は、イスラエルにおいては、下層の階級に属し、常に圧迫されていた人たちでした。聖書では、罪人とか、病人とか、遊女とか、徴税人と呼ばれている人たちです。この人々は市民権を得ることなく、社会のかたすみでほそぼそと生活していました。
 この人々にとって、イエスはまさに救いの神でした。見捨てられたような生活をしていたのに、自分達も一人前の人間として対等に言葉をかわし、一緒に食事をし、手を触れてくれたのです。これこそ人々が待ち望んでいた出来事でした。

牧者

 よく聖書では、イエスのことが牧者として描かれます。羊の群れのような群衆は、常に牧者を求めていました。イエスはこうした人々の期待に答える人物でした。
 現代ではどこに牧者がいるでしょうか。日本では、部落差別の問題や、滞日外国人の問題だけでなく、学歴による差別も大きな問題になっています。世界的には、難民の問題から、有色人種差別の問題、さらに宗教による差別まであります。こうした数かぎりない問題が山積みされている中で、どこに牧者が求められるのでしょうか。
 イエスの答えは、こうした圧迫を受けている人自らが立ちあがらない限り、問題は解決しないということです。イエスは問題を解決したのではありません。どこに問題の解決があるかを示したのです。律法の社会の中で苦しんでいた人達は、キリスト教によって、その圧迫から解放されました。しかし、また同時に、キリスト教によって、差別され圧迫された人達もいました。
 私達は常に差別や圧迫に立ち向かわなければなりません。一人一人の人間が人間として認められる社会を、自らの力で築いていかなければなりません。神の力はこうしたことに力をおしまない人のうちに働いています。

年間第16主日B年(瀧野正三郎)
[こじか1979.7.22号掲載文を加筆修正]

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