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《みことば》 「種」
《聖  書》 マタイによる福音書 13:1-9

福音の種

 この頃よく使われる「福音宣教」という言葉は、以前それほど耳にする事がありませんでした。むしろ、昔からよく使われていたのは「布教」という言葉でした。では、どうしてこのように変わってきたのでしょうか。「布教」という言葉を使うと、何か自分たちがいいものを持っていて、それを人々に与えようという姿勢が感じられます。これは、第二バチカン公会議(1962〜1965)以前の教会の姿勢でもありました。
 「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28:19)という呼びかけに答えて、弟子たちは全世界に出かけて行きました。
 でも、今日のたとえにもありますように、福音の種は、すべての人にまかれています。私たちが福音を持っていて、それを他の人に分け与える事ではないのです。
 「福音宣教」という言葉も、充分にこの事を示しているとはいえません。まだまだ、福音を教え、のべようという姿勢があります。大事なのは、それぞれの人の持っている福音の種が実を結ぶ事です。別にわざわざ自分の持っている福音を押しつける必要はありません。
 ただ人の弱さによって、福音の種を自分一人では充分に実を結べないのです。あるいは、自分が福音の種を持っている事に気づかないのです。私たちのできる事は、お互いの持っている福音の種を芽生えさせるように協力しあう事です。  「私たちは、社会の中、人々の中にある福音的なものを、キリストのメッセージ、みことばの種として受け入れ、それに協力することが必要であると言えるでしょう」(京都教区ビジョン1981)。

年間第15主日A年(瀧野正三郎)

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