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《みことば》 「信じる」
《聖  書》 マルコによる福音書 5:21-24,35-43

信じること

 「信仰」について説明することはむずかしいです。もちろん、信仰の内容については、誰でも答えることができます。しかし、信仰の内容をすらすらと答えたからといって、それがすぐ信仰につながるわけでもありません。
 教会に信仰を求めてきた人に対しては、信仰の内容を教え、それを暗記させて、洗礼の前にそのとおりに答えさせたりします。
 最近よく広まっている、ものみの塔や、統一原理や、モルモン教の人達の話しを聞いていると、誰に聞いても同じ答えが返ってくることに感心させられます。確かに説得力があるし、聞いている方も、ついついその気にさせられてしまいます。しかし、これでいいのでしょうか。信仰とは、信仰内容をうのみにして、それをくりかえすことなのでしょうか。
 以前までの神学校の教育のあり方は、ある一つの決まった司祭像があって、それに、将来神父になろうとする神学生をあてはめようとしました。また、神学の授業も、すべて質問と答えが決まっていて、ようするに、それをまる暗記して、正確に答えれば、神学の成績は優秀とされたのです。神学の授業だけでなく、神学校の生活も同じで、すべて決められたとおりに動く神学生が、将来すぐれた神父になると判断されていたのです。
 ところが、最近の神学校の教育のあり方は、ある決まった司祭像を作りあげるのではなく、いろんな司祭像の可能性をさぐることをめざしています。神学の授業も、ある決まった答えを出すのではなく、いかにしたら答えが出るかを一緒に探していくのです。

求道生活

 信仰に関しては、一生が求道の生活です。これでいいという答えがないからです。もちろん、その時、その場での答えはあっても、それが、いつでも、どこでも通用するとはかぎりません。
 今まで教会で教えてきた公教要理は、いつでも、どこでも通用する答えがこれなんだと教えてきました。しかし、それはどこでも通用する答えではありません。各自がおかれた場で、それぞれが答えを見いだしていかなくてはなりません。常に神を求め続けることこそ信仰です。だからこそ、信仰について語るのはむずかしいのです。 どんな困難にあっても、どんなやみの中にいても、いつかきっと光りが見いだされるという希望を持つことができるのは、信仰です。はじめから先が見えていれば、それは信仰とは言えません。

年間第13主日B年(瀧野正三郎)
[こじか1979.7.1号掲載文を加筆修正]

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