《みことば》 「成長」
《聖 書》 マルコによる福音書 4:26-34
神の国のたとえ
マルコによる福音書を先入観をぬきにして読みますと、イエスが長々と話しをする場面は見当たりません。何かの出来事に対して、イエスの意見が述べられることが多いです。
神の国についても、抽象的な話しをするのでなく、たとえで語りかけています。たとえの題材も、日常によくみられるものを使っています。
「神の国」という表現は、現代の私たちにとって理解しにくいものです。教会の歴史の中では、長いあいだ「天国」という表現が使われてきました。これはマタイによる福音書の「天の国」という表現に基づいています。マタイによる福音書は、当時のユダヤ人キリスト者を対象として書かれています。そのために、「神」の名をみだりに呼ぶなかれという戒めを忠実に守ろうとするユダヤ人の慣例に従って、「神」という言葉のかわりに、「天」という言葉でそこに住んでいる方を表わしています。主の昇天の祝日で見ましたように、聖書の時代の宇宙観では、天は神の住まいというのがあたりまえでした。しかし、現代の私たちは天が神の住まいとは考えていません。ですから、「天国」も別の言葉で説明されなければなりません。
成長
たとえを読んでみると、種が自然に成長することが強調されています。また、どんな小さな種でも、大きく成長する可能性を持っているのです。
私たちは、どうしても自分のしたことにこだわります。しかし、一人の人間のできることには限界があります。たくさんの人達の協力なしには生きていけません。さらに、自然の恵によっても生かされています。
また、私たちは、見た目で物事を判断してしまいます。あいつはだめな奴だときめつけてしまいます。その結果、これから成長する可能性のある目を摘んでしまいます。
どんな場合でも、これでいいということはありません。常に改良していくことが必要なのです。人間も完成された人はいません。お互いに成長していくことが大切です。どんな人でもかわる可能性があるのです。私たち一人一人に、さらに成長できる力が与えられているのです。
年間第11主日B年(瀧野正三郎)