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《みことば》 「収穫」
《聖  書》 マタイによる福音書 9:36-10:8

だれが種をまくのか

 福音宣教について考える場合に、いつも問題になるのは、誰が種をまくのかということです。
 第二バチカン公会議が開かれるまで、教会では「布教」という言葉がよく使われていました。「布教」という言葉は、福音を知らない人に福音を教えるという考えがあります。宣教師たちはそうした考えから、遠く地の果てまで出かけていきました。日本に現在いる宣教師の中にもこうした考えの人がいます。
 しかし、第二バチカン公会議以後、「福音宣教」という言葉が、「布教」という言葉に代ってよく使われるようになります。「福音宣教」では、言葉で伝えるだけでなく、生活におけるあかしという点にも注意が向けられています。
 さらに、こちらがよいものを持っていてそれを与えるだけでなく、相手のよいものを受け入れることも要求されます。つまり、福音は神の働きによってすでにまかれているということです。

収穫

 イエスは収穫のために弟子たちを派遣します。せっかく神の働きによって福音の種がまかれていても、人々は自分たちがすでに福音を持っていることに気づかない場合が多いのです。イエスの弟子の役割は、自分たちの考えを相手に押しつけることではなく、相手の持っている福音を収穫することなのです。
 私たちは注意しないと、自分たちの信じていることが正しく、それを相手に押しつける傾向があります。自分たちだけが福音を持っていて、それを相手に与えようとしてしまうのです。「収穫」はすでに相手が持っている福音を受け入れることなのです。

年間第11主日A年(瀧野正三郎)

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