《みことば》 「あわれみ」
《聖 書》 ルカによる福音書 7・11〜17
社会の中で苦しむ人々
今の日本の社会は、物が豊かになり、お金を出せば何でも手に入れることができるようになりました。しかし、その反面、この日本の社会に中にあって、差別を受けたり、苦しい状態の中で生活せざるをえない人々もたくさんいます。
もし、社会全体が、利益をあげることに貢献している人々だけを人間として認めて、ほかの人々をじゃま物のようにあつかうとしたらどうなるでしょうか。
まず、老人は昔のうば捨て山の話のように、社会から離されて、ただ死を一人さみしく待つだけになってしまいます。
身体に障害のある人たちも、社会から切り離されて、ぜんぜん生きがいも見いだせないまま、みじめな生活を送ることになります。
生活保護を受けている人たちも、政府からの手当てがもらえなくなり、毎月食べていくことも困難になっていきます。
このような状態が来ないともかぎりません。いや、少しづつ日本の社会が、このようになりつつあるように思えます。
イエスはやもめをあわれに思う
聖書にはイエスがいろんな不思議なことをしたことが伝えられています。でも、イエスが人々を自分に引きつけようとしていたわけではありません。
イエスがいつも誰と話したり、誰と一緒にいたのかということが一番大切なことです。イエスはいつも社会の中で苦しめられている人のところに行って、勇気づけていました。
今日の福音では、イエスがやもめのことをあわれに思ったと伝えられています。母親と一人息子だけの二人だけの母子家庭だったのです。母親にとっては、一人息子だけが生きがいであり、その息子が死んでしまったら、生きていくことも無意味になるにちがいありません。今まで、女手一つで苦労して生活してきたことも、無駄になってしまうのです。イエスはこのような人の姿を見ると、いてもたってもいられなくなったのです。
私たちはイエスと全く同じような行動はとれないかも知れません。でも、イエスが人をあわれんだように、私たちも人に対してあわれみを持たないといけません。
あわれみというのは、単にかわいそうだとか、同情することでもありません。相手と同じ立場に立って、その人を一人の人間として受け入れること、対等の人間としてつきあっていくこと、そして、お互いが成長しあうことなのです。
年間第10主日C年(瀧野正三郎)
[こじか1989.6.11号掲載文を加筆修正]