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《みことば》 「とりで」
《聖  書》 マタイによる福音書 9:9-13

 聖書で使われる「とりで」は、いろいろな意味で使われています。一つは、高い所を示すもので、岩と平行してよく使われています。これは「やぐら」と訳されています。もう一つはのがれる所を示すもので「さけ所」と訳される場合もあります。
 「とりで」は自分たちの身の安全を守る場所だったのです。今の私たちと違って、街の回りを城壁で囲んでいました。
 イスラエルの人々は、このとりでが、いかに自分たちを守るのに必要かを感じていましたので、神に向かって祈るときも「あなたは私たちのとりでです」という表現を使っていました。これは詩編にしばしばでてくる賛美のことばです。
 しかし、ただ自分たちのとりでとして神をたたえるだけでなく、さらに、しいたげられた者、貧しい者、弱い者のとりでであると言われています。当時のイスラエルの人々は大国の支配の支配のもとにいましたので、ある意味では、全部の人が圧迫された者、弱い者と考えられていました。主のさばきの日を期待するのは、主が自分たちを征服している人々を滅ぼし、自分たちの国を建てることができると望んでいたからです。
 イスラエルの人々は、どのような苦しみにあっても、主が必ずその苦しみから解放してくださるという信頼をもっていましたので、主をしいたげられた者のとりでとしてたたえていたのです。
 他方、イエスの時代になると、イスラエルの人々の中でも、しいたげられた人々が大勢いました。罪人とみなされている病人や徴税人たちです。病人には悪い霊がついていると考えられて、一般社会から隔離された状態にありました。病気が治ることは社会に復帰することを意味していました。ですから、病気を治されるイエスは、しいたげられた者のとりでと感じていました。
 また、イエスは罪人とみなされている人々や徴税人と食事をされています。ユダヤ人にとって罪人みなされた人と食事をともにすることは、けがれた者となると考えられていた時代ですから、イエスの行動は当時の人々には驚きでした。人々から人間あつかいされていなかった人にとって、イエスはしいたげられた者のとりでとみなされました。

年間第10主日A年(瀧野正三郎)
[こじか1975.10.19号掲載文を加筆修正]

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