<ふりがなつき「PDF」ダウンロードできます>

《みことば》 「いやし」
《聖  書》 マルコによる福音書 1:40-45

病気

 イエスは、しばしば病人をいやしました。当時の人々の病気に対する考えは、今の時代の私たちとは違っていました。今なら、病気になると医者のところに行って病気を治してもらいます。病気の原因も、たいていの場合、病原菌によるものと考えられています。
 しかし、当時の人々は、病気になるのはその人に悪霊がついたからだと考えていました。つまり、その人の罪のせいで悪霊が入り込み、病気になったと考えていました。だから、病気になると祈祷師のところに行ったり、有名な預言者のところに行って、病気を治してもらいました。
 病気が治らない人は、町の外へ追い出され、罪人のようにあつかわれていました。一般の人は、病人にさわるとけがれると考えていましたので、病人に近づこうとしませんでした。

いやし

 イエスが病人をいやされたのは、ただ病気が治される事だけを意味していませんでした。つまり、病気の原因である罪のゆるしをともなっていました。病気が治された人は、病気が治る事によって罪人とはみなされず、町の中を自由に歩く事もゆるされました。
 こういう意味で、イエスが病人をいやされたのは、ただ不思議なわざを行なって、人々を引きつけるためではありませんでした。病人が一人の人間として社会の中で公に生活できる事を願っていたのです。
 現代では、確かに医学が発達し、いろいろな病気が治されています。しかし、医学的に健康な人でも病人と同じ人もいます。たとえ医学的に病気が治っても病人であり続けるのは、回りの人がその人を一人の人間として大切にあつかっていないからです。今の社会のじゃま者、お荷物として考えている限り、その人のいやしはありえないのです。
 いくら立派な施設を作っても、貧しい国の人々に援助金を送っても、いやしにつながりません。私たちがイエスと同じように、病気や貧しさで苦しんでいる人たちと共に歩もうとする時、いやしが実現します。
 この意味で、いやしは過去の出来事ではありません。私たちもイエスと同じようにいやしを行なう事が出来るのです。私たちが今までの生活をあらためて、一人一人の人間を大切にする行動を取って行く事が大切なのです。

年間第6主日B年(瀧野正三郎)
[こじか1979.10.28号掲載文を加筆修正]

inserted by FC2 system