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《みことば》 「塩」
《聖  書》 マタイによる福音書 5:13-16

 たとえ話の中で「塩」が使われていますが、このたとえ話は現代の私たちにも共通した話です。日本では食生活で特につけものが一番関係しています。さらに、葬式の時、家に入る時に踏んで入るために清めの塩がくばられたり、相撲の時にしきる前に塩をまいて清めたり、いやな人が帰った後に玄関に塩をまく習慣もあります。イエスの時代の人々が全く同じような習慣を持っていたわけではありませんが、塩が何らかの意味で清めのために使われていた事がわかります。
 しかし、ただ清めるだけではなく、塩が味の変わらぬものとして、マルコ9:50では、「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」というイエスの言葉が伝えられています。これは変わらない友情のしるしとして、塩が使われていた事を示しています。

キリスト者の役割

 イエスの弟子の役割は、今の社会の中でも大切です。塩がすべてのものに味を付けるように、イエスの弟子はすべての人の価値を見いだし、どんな人間にも値打ちがある事を示 す事ができます。
 今の社会では、頭のよい人とか、手の早い人とかが尊敬されて、あまり頭のよくない人とか、手が遅い人とか、身体の不自由な人はじゃまものあつかいされてしまいます。イエスの弟子はこのような、社会の中であまり必要とされず、じゃまものあつかいされている人一人一人に価値がある事を見いだす役割を持っています。これはイエスが一番大切にしていた事です。
 イエスはその時代の人々から罪人とけいべつされていた人々の中にこそ値打ちがある事を見いだしました。そして、むしろその時代の支配者や、えらい地位についていた人々には値打ちがないと主張しました。
 イエスの弟子にも同じ役割が与えられています。今の社会の中で大切にされている価値ではなく、一人一人の人間の持っている価値を大切にし、それを守り育てていく役割があります。

年間第5主日A年(瀧野正三郎)
[こじか1981.2.8号掲載文を加筆修正]

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