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《みことば》 「幸い」
《聖  書》 マタイによる福音書 5:1-12a

 「幸い」について語る時、まず考えられるのはマタイによる福音書の山上の説教(5章〜7章)の中の言葉です。ここでは「貧しい人々は、幸いである」(ルカ6:20)という言葉の代わりに、「心の貧しい人々は、幸いである」という言葉が伝えられています。このような言葉から考えられる事は、ここで幸いといわれているのが、金持ちとか貧しい人とかを問わず、倫理的な意味で謙遜な人を指しているのだという事です。だから、「今飢えている人々は、幸いである」(ルカ6:21)という代わりに、「義に飢え渇く人々は、幸いである」とも伝えられています。
 私たちはこのような二つの違った伝承をどのよに受け止めていけばよいのでしょうか。私たちが四つの福音書を持っているのは、それぞれイエスの言葉と行いについての伝承と同時に、それぞれの福音書記者が強調したかった内容を含んでいるという事です。イエスの言葉は死んでしまったものではなく、それぞれの場に応じて語り伝えられていったものです。ですから、私たちはそれぞれが伝えられていった弟子たちや教会の状態についても配慮していく必要があるのです。
 ここで私たちが見なければいけないのはイエスの行動です。イエスはしいたげられた者とともに生活しています。これは明らかに旧約聖書の教えとは違います。貧しい者に施しをしたり、助けたりする人が幸いとされていたのであって、貧しい人や罪人と食事をともにする事は求められていませんでした。むしろ、さけるべき事とされていました。貧しい人はあわれみをかけてあげる対象とされていたのです。
 「貧しい人々は、幸いである」という言葉を、イエスの行動に照らしてみるとどうなるでしょうか。イエスを受け入れていった人は、富んでいる人や力のある人ではなく、まさに貧しい人や苦しんでいる人たちでした。イエスによって、初めて一人前の人間として認められたのです。イエスは当時の律法によって作られていた差別を取りのぞかれたのです。ですから、この言葉を、今ある苦しみをがまんしていれば、死んだ後にきっと報われるから今の状態に耐えなさいという意味でとらえない方がよいでしょう。これこそ、宗教が阿片として批判された精神です。
 一方で富んでいる人がおり、他方で貧しい人がいる事にイエスはがまんできなかったのです。そうした制度を支えている人たちに批判を込めて言われた言葉なのです。

年間第4主日A年(瀧野正三郎)
[こじか1981.2.1号掲載文を加筆修正]]

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