<ふりがなつき「PDF」ダウンロードできます>

《みことば》 「求道」
《聖  書》 ヨハネによる福音書1:35-42

求道

 宗教において、ややもすると悟りを開いたように錯覚する人が多くいます。よほどの聖者でない限り、私たちはいつも求め続けねばなりません。むしろ、聖者であり悟りを開いた人はその歩みを止めない人かもしれません。
 すでに自分は救われたとか、教えを身につけたと言える人はいません。イエスに従うということは、これこれの教えを理解できましたというものではありません。ある意味では、イエスの生き方を追体験することかもしれません。イエスは人の生き方がどうあるべきかを身をもって示しました。イエスの生き方は私たちの行くべき道を示すものです。
 私たちは信仰というものを安易に考えているのではないでしょうか。人は行ないによってではなく、イエス・キリストを信ずる信仰によって義とされると言ったのはパウロでした。しかし、そのパウロも常に走り続けていました。私たちはパウロの言っている都合のよいところだけを取り出して自己弁護しているのではないでしょうか。

旅する教会

 信仰に関しては、一生が求道の生活です。これでいいという答えはありません。もちろん、その場その場での答えは必要ですが、それがいつでもどこでも通用するとは限らないのです。
 今まで教会で使ってきた公教要理は、いつでもどこでも通用する答えであるかのように教えてきました。しかし、いつでもどこでも通用する答えはありません。各自が置かれた場で、それぞれが答えを求めていかなければなりません。
 第2バチカン公会議の教会憲章では、「旅する教会」という表現が使われています。固定した教会の教えが、現代の色々な問題に対応できなくなり、公会議は開かれました。教会もまた旅するものなのです。

年間第2主日B年(瀧野正三郎)
[こじか1976.3.14号掲載文を加筆修正]

inserted by FC2 system