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《みことば》 「神の小羊」
《聖  書》 ヨハネによる福音書 1:29-34

 「神の小羊」という洗礼者ヨハネの言葉を理解するためには、旧約聖書で「小羊」の出てくる箇所を参照する必要があります。
 出エジプト記12章には、過越の小羊の話が出てきます。イスラエルの民がエジプトで奴隷として生活して苦しんでいた時、神はその民を解放しようとして、各家で「傷のない一歳の雄の小羊」を一頭づつほふり、夜それを食べて、その血を家の戸口のかまちとかもいにぬるようにと命じました。このしるしのために、イスラエルの人々はすべての長男を殺すために来た「滅ぼす者」の手からのがれる事ができました。イスラエルの人々は、この出来事を記念するために、主への過越のいけにえをしてこの儀式を守り続けているのです。
 またレビ記5章では、罪のあがないとして、小羊をささげるようにといういましめが定められています。
 さらに、この小羊の伝統に加えて、イザヤ書に出てくる主の僕の姿の中にも、小羊が描かれています。
『苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を刈る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。』(53:7)
 この僕の姿は、後にキリスト者が、イエスの姿に最も近いものとして受けとめたものです。この事は、使徒言行録8:26-40の話の中ではっきりと伝えられています。主の僕は、多くの人の罪を背負い、あがなうために、一言も文句を言う事なく死んでいきます。
 ヨハネによる福音書に伝えられている話を通して、十字架にかけられて殺されたイエスが、新しい過越の小羊である事を伝えようとしているのです。昔、小羊の血によってイスラエルの民が救われたように、今度は神の小羊であるイエスの血が流される事によって、人々が救われ、神の恵にあずかる事ができたと主張されています。
 丁度、ヨハネによる福音書が書かれた90年から100年頃、イエスは誰であるかという議論がありました。つまり、イエスの人性と神性という問題です。イエスは人として生活しましたが、又、初めから神とともにあり、神であるとヨハネによる福音書は主張しているのです。

年間第2主日A年(瀧野正三郎)
[こじか1981.1.18号掲載文を加筆修正]

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